岡本家
jacob2019/03/31 08:32:11

岡本家の足跡

 

1)はじめに

 

 岡本非暴力研究所所長、岡本三夫さんは、ご自身の奥様へのエスペラントの紹介を、「愛妻への最良の贈り物」と表現されました。

 それはどうしてなのか、三夫さんと珠代さんの、これまでの歩みをたどることで、その訳を探ってみましょう。

 

2)三夫さんの生い立ち

 

 岡本三夫さんは1933年6月7日 栃木県烏山町(現・那須烏山市)に生まれました。父親は町役場の戸籍係でした。

 8歳の年、1941年には太平洋戦争が始まり、1944年には本土空襲に備えて、学童疎開が始まりました。三夫さんは爆撃機の轟音を覚えています。12歳の時、1945年、母の敏江さんが、栄養失調で亡くなります。戦争は8月に終わりましたが、日本では食料難が続き、兄弟を亡くします。そして15歳の年、1948年、今度は父親も栄養失調の為に亡くなってしまいました。烏山中学校を卒業してから、横浜の実姉の所へ移住します。

 1953年、神奈川県立横須賀高校卒業。横須賀緒明山教会(現・日本同盟基督教団横須賀中央教会)にてJames Beasley師の司式により受洗されました。

 1957年に東京クリスチャンカレッジ(TCC)卒業、東京第一中央バプティスト教会の協力牧師(associate pastor)になられました。

 

3)珠代さんの生い立ち

 

 一方、(旧姓、上野)珠代さんの方は、1938年、東京都荒川区に誕生。荒川区の小学校を卒業すると、区の小学からは初めての出来事でしたが、中高一貫校である桜蔭学園に進学します。母親の強い希望だったのです。母は自分も進学を希望していましたが、兄の反対で実現できなかったのです。家具職人の父親も教育熱心でした。

 大学は御茶ノ水女子大学、哲学科です。三年生のときに都内のアテネフランセでギリシャ語、ラテン語の授業を取りました。その時、同じクラスに三夫さんがいたのです。授業は9月から始まりました。しかし三夫さんは翌年、1960年4月には止めてしまいました。米国マサチューセッツ州ゴードン神学校に留学が決まり、その渡航準備をする必要があったからです。

 

4)三夫さんの留学

 

 一生懸命貯めた旅費ですが、出発は飛行機ではなく船でした。横浜からアメリカを経由してブラジルに移民を運ぶ船です。船室は、向かい合わせに三段ベッドが置かれた狭いものでした。おせんべいを持って、横浜まで見送りに行った時に、珠代さんはそれを見ました。

 

 三夫さんはゴードン神学校で、哲学と神学を学びながら、ドイツから来た人達からはドイツ語を学びました。

 1961年ペンシルバニア州フィラデルフィアのウエストミンスター神学校に転校、2年後に神学修士号を取得。そこから日本には戻らずに、ドイツのハイデルベルク大学哲学・神学部に留学します。

 

5)珠代さんの留学

 

 その頃、珠代さんは大学を卒業して都内の国際文化会館に勤めていましたが、アメリカへの留学を希望していました。そしてオハイオ州デイトン大学院に、奨学金付で留学が決まりました。旅費はフルブライトから出ます。1965年珠代さんは飛行機でアメリカに向かいました。そしてその翌日のこと。ドイツから一時帰国して来た三夫さんが、東京の珠代さんの実家へ訪ねてきたのです。彼は珠代さんの両親と会いました。父親は好感を持ったようですが、なぜか母親は余り彼とは気が合いませんでした。このことは母親が亡くなるまで変わりませんでした。

 

 珠代さんは、アメリカではカトリックの哲学や思想を学び、1年8ヶ月後、修士号を得て、ヨーロッパを通って帰国しようとしていましたが、突然、一旦は手紙も途絶えていた三夫さんから、ドイツに来ませんかと手紙が来ました。珠代さんは5月にアメリカからドイツに渡りました。ドイツに行ってみると、三夫さんが、住む所もちゃんと準備して待ってくれていました。珠代さんは、ハイデルベルク大学のドイツ語通訳者養成講座を3ヶ月間受講しました。そして8月、日本に帰国して、国際文化会館に復職しました。

 

6)帰国、小阪先生との出会い

〔小阪清行先生の「岡本先生ご夫妻について」より引用させて頂きました〕

 

 1968年、三夫さん帰国。香川県善通寺市四国学院大学にドイツ語教員として就職。後に平和学教授となります。そして5月に珠代さんと結婚し、日本基督教団善通寺教会に転入します。

 1969年、長男の建さん誕生 1970年、次男の玲さん誕生 そして1972年、長女の沙良さんが誕生します。

 

 その頃、三夫さんは小阪清行さんと出会います。小坂さんは、善通寺の四国学院大学でドイツ語を教えてみないか、との話がありドイツ語の教員として就職しました。西ドイツでの2年間の留学と1年間の東ドイツでの通訳のアルバイトから帰国して間もない頃でした。、

 小坂さんは高校時代からエスペラントをやっていて、四国学院の第二外国語の授業として、エスペラントを採用してもらえないものかと考え、岡本先生に相談しました。

 「そんなに急では無理があるでしょう。物事は、段階を踏まないと」

というのが彼の当時の考えで、差し当たり岡本先生の平和学の授業で、川村先生がエスペラントについての講演を行うことになりました。

 

7)珠代さん、子連れ留学

 

  1982年から1990年まで、珠代さんは一人で子供3人を連れて、アメリカミシガン州立大学哲学科に留学しました。子供たちはそれぞれ小学生、中学生、高校生でした。三夫さんが、その費用の全てをを日本から送ってくれました。また夏休みや冬休みにはアメリカに来て、親子5人で過ごしました。彼女はそこでドイツのハバマスヤアメリカのデューイなどの研究を続け、『民主主義とインフォームドコンセント』という論文を仕上げました。その間の出来事です。

 

8)チェルノブイリ原発

 

 1986年4月26日、ソ連(当時)のウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所で核燃料が爆発、飛散した放射能が東欧、北欧で多く検出されました。そのため飲料水や牛乳の規制がされました。

 その年8月、三夫さん、珠代さんは、男の子2人を連れて(沙良さんはアメリカでキャンプに参加)ドイツに行きました。ハイデルベルク大学の600年祭の行事に招待され、参加するためでした。ドイツはチェルノブイリに近いからと、久米三四郎氏を始めとする学者たちから警告されました。灰燼を吸い込むな、キノコを食べるな、小川に入るな。しかしその警告は守られませんでした。しばらくすると、珠代さんは、目の下に紫斑が出ました。三夫さんも下腹部に。それを見て三夫さんは、被爆したのではないかと言いました。1995年、三夫さんは腎臓癌で右腎摘出、2000年頃、珠代さんは直腸癌になりました。

 

9)三夫さんの仕事

 

 1989年から1991年まで、三夫さんは日本平和学会会長を務めました。そして、1990年には広島修道大学法学部国際政治学科に転職、広島牛田教会に転入します。

 

 1992年、第九条の会ヒロシマ結成に参加。2月にアメリカのオーバビー博士が来日、広島で講演会があり、講演後に日本各地に先駆けて、第九条の会が結成されました。

 

2000年、京都大学より博士号(文学)取得。2003年から2006年まで第19期日本学術会議会員を務めます。そして2005年広島修道大学退職。退職後2007年までお勤めを続けました。

 

10)小阪先生によるお話

 

 小坂さんの話です『 その後、岡本先生は広島の修道大学に移られ、音信も途絶えましたが、十数年もたったある日突然、彼からメールが届きました。田中克彦の「エスペラント」を読んで感銘を受けた。学習を始めたいので、色々教示願いたい、と。

 それからかなり頻繁にメールの遣り取りが続きました。適当な学習書を推薦して欲しいとか、その後は語学的な質問とか・・・。そんな流れで忍岡さんを紹介しました。岡本先生夫妻と広島エスペラントセンターとの繋がりがこれほで長く続くとは、当時想像さえしておりませんでした。

 

11)エスペラント学習の動機

〔一般社団法人関西エスペラント連盟のLa Movado687『「平和実現の地球語エスペラント」を学ぼう!』より、引用させて頂きます。

 

 三夫さんのエスペラント学習の動機について、もう少し見ていきます。

『 田中克彦の著書に刺激されて、荻原洋子・小林司共著『4時間で覚える地球後エスペラント』(白水社)でその文法を学んだ。実に面白いので、周囲の人たちにも勧めている。合理的な言語であり、文法はドイツ語やフランス語どころか、英語よりも簡単。英語の嫌いな人にもお勧めだ。エスペラントを知っていれば、英語や他の西洋語も易しくなる。

 私がエスペラントを見直すことになった第一の理由はこの人造語の目的が平和と人権だからだ。ポーランド在住のユダヤ人医師ザメンホフがエスペラントを考案した理由は平和と人権だった。彼は母国語以外に人類共通語があれば、異民族どうしが共通語で理解しあえるから、異民族間の争いごとは激減するだろうと考えた。、、、なんと、私が長年取り組んできた平和学の考えと合致するではないか。不明を恥じている。

 第2は、英語帝国主義とも言うべき英米語偏重の言語状況に対する反省である。私は猛烈に英語を勉強した上、海外生活も長かったから、英語は身についた。だが、英語の氾濫がもたらすマイナス面も考えている。、、、、エスペラントは脱・米国化を促進し、もっと冷静に世界を見る眼を養ってくれるのではないか―私はそんな希望を抱く。

 第3は、ボケ防止という不純な(?)動機である。昨年、実弟の病死が家族に伝えられたのは2か月後のことだった。訃報をいち早く電話で聞いた姉が忘れてしまったのだ。86歳だが、物忘れがひどい。私自身も要注意だ。、、、、』